修験道の智慧をベースに、からだとこころがつながるボディワークを指導する山伏の長谷川智先生。
2022年3月に東京・高円寺で開催されたソマティック・ダイアローグでは、「懺悔が与える身心への影響」などについてご指導いただきました。
今回の記事では、これに関連して、「懺悔」を使って、自分のネガティブや闇と向き合うことについてお話しいただいています。
自分自身の中にあるネガティブや闇と向き合うこと。それは、必ずしもしなくてはいけないことではありません。
むしろ、自分の長所や魅力に気がついて、認めていくほうが大事なときもあります。
しかし、人生にはさまざまなことが起こります。
人間関係や突発的な事態によって、自分の内側にあるネガティブな感情や闇に気づき、落ち込むこともあるでしょう。
誰かを傷つけて、自分も傷ついたとき。
どうにもならない自分の至らなさに気づいたとき。
もしかしたら、長谷川流懺悔が役立つかもしれません。
ネガティブや闇とからだで向き合う〜山伏のさわやかで明るい“懺悔”(前編)
長谷川智(はせがわ・さとし)
湧気行代表。羽黒派古修験道先達(二十度位)。筑波大学大学院修士過程修了(スポーツ心理学、剣道)。
山形県出羽三山などでヨガ・瞑想行法・滝行の指導を行うほか、一橋大学や朝日カルチャーセンターでの体育、ボディワークも指導。著書に『超人化メソッド』(BABジャパン)など多数。
近年は、山梨県河口湖で修験道体験ができるワークショップを随時開催。外国人や学生、女性の参加も多い。
ホネナビ・マインドフルネススタジオ代官山 https://www.easyoga.jp/workshop/
●その他インタビュー(講師インタビュー)
尊敬の念をもって相手に接すると試合に勝てる
「こころの在り方によって、からだが変わる」。
言ってみれば当たり前のことに僕が気づいたのは、高校生の頃に剣道の試合をしていた時でした。
僕が勝つことを喜んでくれる人の顔を思い出したり、その人に感謝して、恩返ししたりするつもりで試合をすると、実によく勝てるのです。
また、「対戦相手を尊敬する気持ちで向かい合うと、落ち着いて試合ができるんだ」とも気づいた。
「勝ってやろう」と意気込むよりも、相手をリスペクトして打ち合うほうが冷静になれて、相手の動きがよく見えたのです。
この剣道の体験が、「からだを整えることでこころを変えること」だけでなく、「こころを整えることでからだを変える」という僕の原体験になっています。
自分の限界を素直に認めることが変化のきっかけになると知った
こころを整えることの中で、僕が最も大切にしているのが「懺悔」です。
「懺悔」というと、怖い、暗そう、謝罪を押し付けられているような印象をもつ方もいるかもしれません。
しかし、懺悔することは非常に重要です。
懺悔が大事だと思うのは、僕自身の経験によるものです。
最初にお伝えしたように、高校時代に心の在り方次第で試合に勝てるという体験があったので、僕は大学の研究室ではスポーツ心理学を研究し、ヨガや瞑想を習いはじめました。
大学卒業後は気功などの東洋的修行法の実践も始め、僕の瞑想・滝行の師匠となる佐藤美知子先生に「あなたは出羽三山に縁があるから、出羽三山に行って修行してきなさい」と言われ、修験道の道に進むことに。
しかし、はじめの3年くらいは勢いだけで修行をしていました。
身体にギリギリまで負荷をかけて荒行していれば、いつか転機が訪れて、悟りがやってくると思っていたのですが、それは方向違いのほうを向いていた。だから先生に声をかけてすらもらえなかったですね。
ところがその後、自分ではどうにもならない問題を抱え、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。
自分の考えが自己中心的でエゴイスティックであると感じ、心の底から愚かな自分を申し訳なく感じました。
悩む日々が続き、どうしようない気持ちになって、「助けてください!」と神に懺悔するような気持ちで、滝行をしたある日のことです。
エゴイスティックな自分を懺悔するような気持ちで冷たい滝に打たれていると、身体が光に包まれたような感覚になりました。そして、不思議と神々しい気持ちが芽生えてきたのです。自分自身に対する情けなさ、なぜだか生まれた神々しさ。
いろいろな感情や感覚がごちゃ混ぜになったまま、僕は泣きながら滝から出てきました。
すると、師匠の佐藤美知子先生が、はじめて僕に声をかけてくださいました。
「滝行っていうのは、そうやってやるものだよ」と。
その時、自分のエゴと抜き差しならないまでに対峙するのが修行なのだと目が覚めました。
自分と丸ごと変えようとするとき、これまでのやり方や気持ちのままでは通用しません。今の自分ではもう先に行けないという状況に追い込まれるという、ある種の絶望感や贖罪の意識がとても大切で、自分の心持ちの限界をつくづく感じなければ、自分を変えるきっかけにもならない、と。
無理をして、立派な自分になろうと頑張るよりも、慈悲心のない自分を素直に認めるほうが、自分の中の「本物」が飛び出してくる契機になると実感しました。
以後、「修行は懺悔から入る」というのが、僕の修行の基盤になっています。
懺悔をすると肩の荷がおりてグラウンディングできる
さて、懺悔すると何が起きるか。
僕が発見したのは、自分の負い目を素直に認めて見ていくと、気がスーッと下がってきて、シャクティ(エネルギー)が動き出すということでした。
不思議なことに、ヨガのアーサナも、懺悔の気持ちで行うとからだが柔軟に曲がります。
先日のソマティック・ダイアローグ(2022年3月のイベント)で、懺悔しながら身体を動かすというワークを皆で行なったら、あるボディワーカーさんから「こんなに簡単にグラウンディングできると思わなかった」と感想をいただきました。
誰しも経験があると思いますが、「自分は何も悪くない!」と強がっていると緊張した状態が続いて疲れますよね。自分の非があるとわかっているのにそれを認めないのは、単純に、身体に良くないでしょう。
でも、懺悔をすると負い目が軽くなるから、肩の力が抜けるし、気が下がって、落ち着いてくる。下手に気合を入れるよりも、ニュートラルになれるんですよ。
マッサージなどの施術にも、懺悔は効果があると思います。
懺悔する気持ちが自分の基盤にあると、自然と人を見下すようなことはしなくなるし、謙虚になって、礼を尽くそうという気持ちになります。
施術者が謙虚な気持ちで、礼を尽くして施術をすると、その思いは受け手にも伝わっていきます。
明るく、さわやかに、自分の未熟さを見つめる
「懺悔なんてしたくない。私には悪いところなんてない」と思う方もいるでしょう。
でも、何かしらの「負い目」を持っていると感じるなら、それを素直に認める、つまり懺悔するとラクになります。
自分のシャドウに目を背けて、ひたすらポジティブなこと、良い面だけを見るのは抑圧になってしまうんですよ。光だけを見れば闇が濃くなる。そうすると具合が悪くなります。当然です。
だからといって自分の闇を責め続けても仕方ないわけで。罪を責め続けるとそれが新たな負い目になってしまう。
「自分を責めてる自分」も大したものじゃないですよね。変な倫理観に縛られて、偏屈になったりします。
「自分の罪やシャドウを見ない」でも「ダメな自分をひたすら責める」でもない道があります。
それは、自分の至らなさを素直に受け入れていくこと。
負い目があることに対して、「スミマセンでした!」って明るく、さわやかに、潔く謝る。複雑に考えすぎなくていい。
そうすると、心がスッキリしていきます。
また、心が変わると、身体のチャクラも開いていきます。
例えば、「さんざんダメなことをしてきたんだから、しっぺ返しを受けても致し方なし」と肚を決めると、丹田がしっかりしてくる。そして、「未熟な自分が生かされているだけでありがたい」と思うと、マニプラチャクラ(第3チャクラ・消化器周辺にあるチャクラ)が活性化しはじめる。
さらに「生かされてありがたいから、今度は誰かに恩返ししよう」なんて博愛的な気持ちになると、アナーハタチャクラ(第4チャクラ・心臓周辺にあるチャクラ)も開いてくる。
実は今年(2022年)から、このような、こころとチャクラがつながるようなボディワークをつくっています。心の在り方が与える身体への影響を知ることを最初に行って、次に、心をどう深めるかを学んでもらうものです。マントラを唱えたり、五輪塔のような形をイメージしたり、呼吸法をしたり、いろいろな方法があります。
「懺悔」の力を感じるセルフワーク
ではここで、懺悔の力を感じるワークをしてみましょう。
前屈をします。
1
自然に上半身を前に倒してみます。身体の感じはどうですか? 身体の曲がり具合を感じてみてください。
2
自分に悪いところがあると感じるのであれば、それを感じながら前屈します(ここで卑屈になる必要はなく、自分の至らなさをただシンプルに感じます)。
1と同様に、身体の曲がり具合を感じてみてください。
3
今度は、「自分が信じている大いなるもの(自然、神様、仏様、ご先祖さまなどなんでも良いです)に対し、自分の至らなさを明るく認めて、さわやかに懺悔しながら、前屈をします。1と同様に、身体の曲がり具合を感じてみてください。
どうでしょう? 自分の非をいさぎよく認めると、身体の力みがとれて、前屈も深くできるのではないでしょうか。
逆に自分の「悪いところ」を責め立てる気持ちがあったり、自分の非を認めなかったりするときは身体がこわばるという方が多いようです。